夏目漱石は、慶応3年(1867)2月9日、江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)で生まれた。同年の10月14日には大政奉還が起こり、日本は江戸から明治へと時代が移る、まさに明治維新の真っ只中であった。今から150年以上も前のことである。
『吾輩は猫である』は、夏目漱石が40歳の時に初めて書いた小説であり、明治38年(1905)俳句雑誌「ホトトギス」の一月号に第一回が掲載され、翌年明治39年(1906)の八月号で11回を掲載して完結した。
中学一年生の宿題
私が初めて『吾輩は猫である』に出会ったのは、昭和50年代(1980年代)であり、掲載が完結してから70年以上も経ってからのことになる。その頃、私は中学一年生で、本の感想文を宿題として提出することになっていた。以前、担任の先生が、『吾輩は猫である』を初めて読んだ時、「おもしろくておもしろくて夢中で読んだ」と言っていたのを思い出し、それではと思い自分も読んでみることにした。期待を膨らませて読んでみたのだが、予想を遥かに外した結果となった。
はっきり言って、難しい。一ページを読むのに一苦労だった。なぜこんなに難しく読めない単語を多く使って書いてあるのだろうと思った。とにかく時間がかかる。ここが問題であった。宿題は感想文を提出することであり、本を読み上げることではない。焦って、それではと思い、本の後ろに書かれている解説を参考にしようと読んでみた。しかし、解説には、「猫の視点で描写している人間社会をユーモアに伝えている」などと通り一遍のことしか書いていない。さすがに同じようなことを書いても写したことが分かってしまうだけだし、せっかく書く文章がそれでは面白くないと思った。仕方がないので、正直に自分では読めないことを白状することにした。
「さぞかし面白い本だと思って読んでみたけれど、読めない単語が多く内容が難しくて、なかなか前に進まない。皆の言っているおもしろいと思えるところまでたどり着けない。もしかしたら将来、読めるようになるのかもしれない。是非、読めるようになりたい。」
などと言い訳のような文章を原稿用紙に書いて、とりあえず感想文ということにして提出した。本は読み切れてないのだから、これは感想文と呼べるか不安であったが、とにかく本を読んでみた感想を文章にしたということにして提出したのだ。
驚いたことに、担任の先生は、私の感想文を褒めてくれた。「自分の思ったことをあのように表現するのは素晴らしい。その時の気持を忘れずに」と言ってくれた。その時は、褒められたというより、なんとか切り抜けたと思いホットした気持ちのほうが強かった。しかしそれと同時に、いつか『吾輩は猫である』を読破して、内容が分かるようになりたいという思いが込み上げてきた。
三度目の正直
その後、社会人になってから、ようやく中学生の時にできなかった『吾輩は猫である』の読破に再度チャレンジしてみることにした。しかし、残念ながら結果は同じだった。同じようなところから先には一向に進まない。内容が頭に入ってこない。今思うと、当時は何事も素早くすることを心がけていたから、読書に関しても素早く読むことが良いことだと思っていた。未熟者の陥る心境である。この本はじっくりと読まなければいけないと悟ったのは、また何年か後のことである。
時は流れて、つい最近になってようやく、もう一度『吾輩は猫である』を読んでみたい気持ちが湧いてきた。50歳を過ぎてからのことだった。「三度目の正直だ」と思った。ただし今回は自分に心境の変化があり、時間をかけて、じっくり読んでみることにした。とにかく時間はかかってもいいから、内容を理解したかったからだ。
じっくり読んでいくと、次第に文章に惹きつけられていく自分に気がついた。この頃までには、以前と比べると、少しは読解力も上がり、時代背景などを理解する能力も向上したのかもしれない。また、夏目漱石の過ごした時代である明治維新の頃の日本に、少し興味が湧くようになっていたからかもしれない。そして話の舞台に牛込や神田など見慣れた地域が出てくると、当時の日本の様子は今と比べるとどうだったのだろうと、想像しながら読んでいくのが面白かった。『吾輩は猫である』を読み出してから初めて「面白い」と思った瞬間だった。
面白いと思いながら読み進めていったのだが、徐々に違和感を覚えるようになっていった。それは、話が横に逸れることが多く、通常の長編小説にある、一章から最終章へと続く、一貫した話の筋のようなものがないことが分かったからだった。
また、各章がまるで、完結された独立した話のように書かれているのだが、各章の話自体には起承転結のような進み方はなく、まるで話を成り行きで終わらせたようなところにも違和感を覚えた。
そして話というより、日頃身の回りで起こった出来事を、まるで日記のように綴られているようにも思えた。正直なところ、これが本当に日本近代文学の名作なのかと疑った。しかしその時、過去にアメリカで良く観ていたテレビ番組のことをふと思い出した。90年代にアメリカで空前の大ヒットとなった、『サインフェルド(Seinfeld)』というテレビ番組である。
アメリカのコメディ・ドラマ番組
『サインフェルド』は、9年ほど続いた国民的コメディ・ドラマ番組で、ニューヨークを舞台にしたシットコム(sitcom)と呼ばれるシチュエーション・コメディドラマである。当時アメリカでは、サインフェルドが放映された翌日は、サインフェルドの話題で持ちきりであった。
主な登場人物は、ジェリー、ジョージ、エレイン、クレイマーの30代の男女4人組で、その他様々なキャラクターが度々出演する。主人公のジェリーの住むニューヨークのアパートを中心にして、ニューヨークが舞台となっており、一話完結の連続ドラマだ。「何処にでも居そうな登場人物」が繰り広げる「何の変哲もない日常」をコメディドラマにするというコンセプトは、当時斬新であったが、番組にするには困難なコンセプトだったと思う。
まずは、コメディドラマであるからには、「何処にでも居そうな登場人物」のキャラクターが重要となる。各自がユニークで、独自のユーモアを持つ。そして、それぞれの持つ世界観は、時と場合によっては主人公を超え、しかしながら四人の役割がピタッと合致する絶妙な人間模様が、一話ごとに見事に描かれている。
そして「何の変哲もない日常」をコメディドラマにするには、日常の中に潜むユーモアをいかに見いだせるかにもかかってくる。
日常の偶然起こる出来事と、人々が意図的に行う出来事から、我々の人間性、他人との人間関係、それらが交差する人間模様を鋭く観察し、そしてそれから見えてくる人間社会を描写することが必要とされるのではないか。
そして思った。『吾輩は猫である』にも同じコンセプトが使われていたのではないかと。
サインフェルドと苦沙弥先生
『サインフェルド』は、1990年代、アメリカで放送されたテレビ番組。そして、『吾輩は猫である』は、1906年に完結された日本の小説。『吾輩は猫である』の主な登場人物と動物は、吾輩(名前のない主人公の猫)、吾輩の飼い主の「苦沙弥先生」、苦沙弥先生の友人の「迷亭」、苦沙弥先生の元教え子の「寒月」、その他数々のキャラクターが登場する。苦沙弥先生の書斎を中心にして、東京を舞台とした連載小説である。
『サインフェルド』との大きな違いは、吾輩と苦沙弥先生の両者が、主人公のように書かれているところだが、「何の変哲もない日常」をコメディドラマにするというコンセプトは共通するものだと思う。
『サインフェルド』がアメリカで放送された年の80年以上前に書かれた日本の小説に、同じコンセプトが使われているのに気付かされた瞬間、これまで『吾輩は猫である』に抱いていた違和感が消え、日本近代文学の名作と言われる理由が少しずつ分かってきた気がした。
『吾輩は猫である』は、日本で初めて西洋感覚のユーモアを用いた、独自のコメディドラマなのかもしれない。だとすると、今から110年以上も前に、既に西洋感覚のユーモアを持ち、その感覚を用いて日本語で小説を書いた日本人が、東京に存在していた事になる。改めて夏目漱石という人物に深く興味が湧いてきた。
漱石の感性
夏目漱石は、今から150年以上も前に生まれ、その後、40歳の時に連載小説『吾輩は猫である』を完結させる。今から一世紀以上も昔に、まだ日本国が西洋からの遅れを取り戻そうと懸命になっていた明治時代に、どのようにして漱石の西洋感覚のユーモアは形成されていったのだろうか。
そこに至るには、漱石の日本語と英語の能力が重要な要素であることは間違いない。しかし、語学力が高いだけでは、その人に西洋の感覚、ましてやユーモアは宿らないと思う。語学力と共に、漱石の持って生まれた感性が基となり、西洋感覚やユーモアが形成され、それをさらに日本語での小説にすることが出来たのではないだろうか。
漱石に持って生まれた感性「物事の性質などを感覚的に敏感にとらえ、それらの繊細でユニークな印象やニュアンスを表現できる能力」がずば抜けていたことに初めて気付いたのが、漱石が通った第一高等中学校(後の一高)の同窓生であった正岡子規であろう。
漱石が23歳の頃、漢詩、和歌、俳句、小説などの制作を試みていた正岡子規は、当時漱石が英語に優れていることは知っていたが、漢文漢詩に優れているのを知って驚いたという。「詩」を書くということは、単純な文章を書くのと違い、書く人の感性が問われ、芸術的なセンスが求められる。子規は、漢文漢詩を通じて、漱石の優れた感性を知ることになったのだろう。まさしく正岡子規だったからこそ、漱石の感性を知り、漱石の可能性を見出すことができたのではないか。その後、漱石と子規との交流は、子規が亡くなるまで続いたという。
優れた感性の持ち主であった漱石は、同時に極端な神経質な人間であったらしい。感性が優れているということは、同時に神経も極端に敏感になるということで、いわば諸刃の剣ということなのかもしれない。
漱石は、ユーモアを好み、落語の愛好家で、座談の名人でもあったというが、もしかしたら、過敏な神経により生じる心の苦しみから逃避するために、自分自身を楽しませ心を和まそうと、ユーモアを好み、落語を聞き、また座談を行っていたのではないだろうか。これらは、今で言うセラピーのようなものだったのかもしれない。『吾輩は猫である』の執筆も、セラピーの一環だったのだろうか。
イギリスから日本へ
明治33年(1900)、漱石は、イギリスに留学し、3年後の明治36年(1903)に帰国する。
後に、英語で小説を書きたかった為か、漱石は留学中に本を読みあさったという。この間に読んだイギリスの小説が基となり、漱石の感性は独自のユーモアを育んでいったいったのかもしれない。
帰国後、漱石は、現代でいうと一話完結の西洋の連続テレビ番組のような小説を、日本で書き上げた。それは漱石が留学中に得たイギリス感覚のユーモアが、日本へ渡っていったということではないか。当時、日本のお笑い感覚ではなく、西洋感覚のユーモアが使える作家は、日本には他にいなかったであろう。
『吾輩は猫である』を発表してから120年近くなるが、漱石のユーモアは今でも読者を笑わせてくれる。まるで漱石が時を超えて、我々に語りかけてくれるかのように。
夏目漱石『吾輩は猫である』解説 伊藤整 新潮文庫 参照


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