プリントタウン東京「知と人の集う街」創刊によせて

地域

 昭和40年代初め(1960年代後半)の頃、私は東京で生まれ、新宿で育った。地元は牛込近辺で、実家は印刷関連の会社を経営している。牛込といえば、早稲田、市ヶ谷、神楽坂など、印刷関連の会社や工場、そして出版社が、今でも多く存在する地域だ。

 私は、生まれてから高校二年の初めまで、その会社の敷地内で暮らしていた。曽祖父が大正時代に印刷業を始め、その後、祖父が引き継ぎ印刷会社を経営していたので、広い敷地内に会社と工場と住居が共存していたからだ。当時は、祖父、叔父や叔母の家族の家が、五軒ほどあったと思う。従兄弟の数を入れるとおよそ20人、別々の家に住んでいたとはいえ、家族の人数はとても多かった。今ではとても考えられないであろうが、当時私は、新宿のど真ん中で、大家族の一員として生活をしていたのだ。昭和50年代末(1980年代前半)の頃までのことである。

 敷地内には、常に多くの人達が働いていて、車の出入りも多く、フォークリフト二台がよく動いていた。子供の頃は、危ないから仕事中は敷地内で遊んではいけない、などとよく言われていたものだ。いわば私は、一般的な家庭ではなく、印刷会社のなかで育てられたようなものだった。

 今ではもう、大家族の一員であった我々は、それぞれの道を歩み、みな別々に生活をしていて、会う機会さえなくなってしまった。祖父の敷地内での生活から離れて長い年月が経つが、今でもあの時の、「印刷機の回る音」と、「インクの匂い」は忘れられない。

街の本屋さん

 私は幼い頃から「読みたい本は、必ず読める」という恵まれた環境にいた。読みたい印刷物が手に入らないことはまずなかった。これはとても幸せなことであったと思う。

 私は印刷会社のなかで育てられたので、印刷物を読むだけでなく、文字、文章、レイアウト等の、作り手側の会話にふれる機会も多かった。自宅でも、新聞は四社から取り寄せていたので、何より文章を読むことには事欠かなかった。しかし、正直なところ、子供にとってはそれほど嬉しいことではなかった。大人の文章はやはり難しく、会話も専門的で分からないからだ。私は、もっと楽しく面白い本が読みたかった。そこで出会ったのが漫画であった。

 当時、自宅から歩いて行ける距離に本屋さんが三軒あった。いわゆる街の本屋さんである。その中でも一番近くにあった本屋さんで見つけたのが、藤子不二雄の『ドラえもん』であった。それ以来、私は藤子不二雄の大ファンになり、特にドラえもんのコミックの、第一巻を買ったことを皮切りに、自分のコレクションとして大切にしていた。

紀伊國屋書店

 中学生になってからは、新宿の紀伊國屋書店へ、自分一人でよく通うようになった。ここは、近所の本屋さんでは、めったにお目にかかれないような様々な種類の本が沢山あったからだ。

 一階から七階まで本だらけのビルで、雑誌、文庫本、図鑑、参考書、辞書、学問書、芸術書、写真集、一般的なものから専門的なもの、そして洋書まで、ありとあらゆる種類の書物が手に入る。一階だけでも街の本屋さんがいくつも入るくらいの規模なのに、それが七階まである。学校や区で運営する図書館でも、到底かなわない本の量だ。

 紀伊國屋書店に行くと、まずは大量にある様々な種類の雑誌をざっと見る。その次に見るのが文庫本である。文庫本も、とにかくその種類の多さに圧倒される。それらを見て回り、興味のある物を探し、手にとってみて、気に入ったら購入する。毎回あらたな発見があり、あらたな出会いがある。

 そして、文庫本以外にも、あらたな本の出会いを求めながら、三階、四階、さらに上の階へと店の中を歩き回る。毎回、ほぼ同じルーティンだが、そのつど違う感覚を覚える。突然、何かひらめくこともあった。私にとって紀伊國屋書店とは、インスピレーションを得るための特別な場所でもあったと思う。 

海外から神保町へ

 私は、高校二年なると直ぐに、アメリカのアーカンソー州にある高校に留学をした。高校卒業後は、テキサス州の大学へ、そして大学院へと進み、その後、テキサス州に長く住んでいた。社会人になってからは、アメリカだけでなく、メキシコにも住んでいたこともあったが、40歳後半を過ぎてから、再び新宿に戻ることになった。平成20年代(2010年代)のことである。

 新宿に戻ってきてからは、週末や休みの日には、新宿よりも神保町によく行くようになった。新宿からさほど遠くなく、古本屋街なので、本屋さんの数が圧倒的に多いからだ。

 アメリカやメキシコにいた時でも、やはり週末には本屋さんによく行っていた。しかし、扱う本の量を比較すると、紀伊国屋書店や三省堂書店の扱う量には到底およばない。そして、本屋さんが何十件も存在する街などは、アメリカやメキシコでは想像すらできなかった。

 神保町には、古本屋の数がとにかく多い。また、新書に関しては、小さい本屋さん以外にも、三省堂書店や東京堂書店という大きい書店もあるので、一日中歩き回っても全く飽きない。

 私にとって、神保町近辺は、紀伊國屋書店に次ぐ、第二の「インスピレーションが得られる場所」となっていった。

印刷による潤い

 私が育った新宿、そして神保町などの周辺の街には、印刷がもたらしてくれた潤いが深く浸透しているのではないかと思う。印刷のおかげで、印刷物が生まれ、なかでも本という形で世の中に浸透していった。そして、漫画、図鑑、文庫本、雑誌、学問書等、あらゆる分野の本が生まれ、それらの印刷物を取り扱う、本屋が広がっていったのだろう。

 同時に、我々の知識や学問をより深めるには、様々な教科書や専門書が必要不可欠となり、それらの本を使い、学問を教える学校も建てられていった。

 また、いわゆる知識を深め、学問を習得するだけでなく、雑誌、本、チラシ、ポスター等の印刷物により、我々は、絵画、音楽、映画や小説等の、芸術や娯楽の分野へも導かれ、「人生を楽しむ」ことの大切さにも気付かされた。印刷物は、「人生には様々な道があり、それぞれ自分の道を歩め」と、我々の背中を後押してくれているかように思える。そして、我々の心も、次第に豊かになっていたのではないか。その結果、印刷による潤いのおかげで、この街全体が大いに発展していったのではないだろうか。

 そもそも印刷とは、何故必要だったのだろうか。それは、一言で言うと「伝えたいことを残すため」だろう。とても大事なことを、口頭だけではなく、何かに残し留めたい。その残す手段として、いわゆる「紙」が発明された。昔はその紙に、伝えたいことを手書きで文字にしていた。もちろん、一冊ずつしか手書きはできない。大変手間と時間のかかる作業であった。しかし、印刷機の発明により、本を作る手間と時間が大幅に省け、そして印刷技術の発展により、一度に印刷できる部数も増え、より多くの人々に本が行き渡ることになり、「伝えたいことがさらに伝わる」ようになっていった。

 知識、知恵、英知、学問や芸術等の「伝えたいことを残す」ために、印刷を通して本となり、教科書となり、雑誌となり、その他様々な印刷物となり、そして本屋ができた。さらに学校ができ、映画館や美術館等ができ、人が集う街へと続いてゆく。人から人へと「伝えたいこと」が伝わっていき、今の街ができたのだろう。このような街は、世界でも稀なのではないかとつくづく思う。

この街を伝える

 印刷から始まり、本などの印刷物が人々の知を刺激し、知を求めて、人々は集い合う。印刷が残した潤いは、人々の交流を生み、「伝えたいことがさらに伝わる」原動力となり、街はさらに発展してゆく。インターネットのない時代から、ここは既に知が集まっていた街であった。この街には歴史があり、人々の繋がりは時を超え国境を超えて、海外へと広がっていった。

 私は、知に触れる機会が、当たり前のように与えられて育った。しかしここは、特別な場所であり、私は恵まれた環境で育ったと今ではしみじみ思っている。今まで仕事やプライベートで海外の数多くの場所を訪れたが、このように印刷が基になって発展した街は、他に類を見ないのではないかと思う。

 今は、情報はネット上に溢れかえっているので、誰でも簡単に得ることができる時代になった。しかし、それらの情報は、真の知と言えるのであろうか。また、人々の交流はネット上で完結できる新たなものが生まれ、人々の交流自体が希薄になってしまった一面もあるのではないだろうか。

 私は、ネット社会を否定はしないし、むしろ歓迎している。ただし、アナログの物を、全て古いとラベリングし、新しいデジタルの物が全て便利でベストだという考えは、とても偏っていると思う。アナログは利便性ではデジタルに劣るのかもしれないが、デジタルに置き換えられない、アナログにしかない良さがある。アナログの印刷技術から始まり、人々が培ってきたこの「街」は、人々の財産である。これからも、デジタル技術と共に、アナログをより一層大切にし、この街を発展させていくべきではないか。

 私は、この特別な「街」のことを改めて世に伝えたい。そして、伝えることによって、人々の交流を促し、新たな知の集いができ、さらなる街の発展に繋げられたら、と願っている。

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